近年、「非認知能力」という言葉が盛んに飛び交うようになりました。
ところが煽りすぎ、過熱して行き過ぎになってはいないか?
「非認知能力」獲得競争になってきてはいないか?
「体験格差」なんて言い出したのもそれに対する施策もおかしくないか?
と現在の風潮に一石を投じる本です。
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614912
印象に残った箇所を何回かにわけて書いています。
前回はこちら
https://soroban-schule.de/?p=11323
日常の体験、ネガティブな体験も貴重な体験
大学のAO入試に関して、予備校側の指導メソッド開発も、大学教員として総合型選抜の設計も担った藤岡慎二さんの言葉
「大切なのは、体験のコンテンツではありません。体験を通して自分が得た価値観をもとにして自分が何を思考しどう行動を変え、それをどう大学での学びにつなげたいかというプロセスを言語化できることです。」
その意味では、学校で部活や委員会活動を頑張ったという体験でも十分。病気をして長期間学校を休んだ経験や、両親が離婚した体験など、一般的にネガティブにとらえられがちな話題でも構わないという。
そろばんを頑張った!検定試験に何度も落ちたけどあきらめず最後に合格した!というのも素晴らしい「体験」ですね!
これは本当にそう思います。
自分が得た力を何に使うのか
神戸YMCAの阪田晃一さん マンスリーデイキャンプの終わりの会での言葉
今日、ここでそれぞれにいろんな仕事をしたね。
そのそれぞれの仕事を完璧にできるようになってほしい。
できないひとに合わせるんじゃなくて、できるひとはどんどんできるようになる。
完璧にやるということはペースを崩さないということ。
何かができるようになると余裕が生まれるね。
一人一人に余裕ができると、それが他人のために使える力になるんだ。
みんなの余裕が大きくなると、もっといろんな人がここに遊びに来られるかもしれない。
重い障害のある人、赤ちゃん、弱い立場の人、困っている人も。
そういうキャンプをしたいと、僕は思っています。
刺さります。こうしたことを日常でもできるのではないでしょうか。
そろばん教室でも例えば、上級の子が初級の子に教えてあげたり、高学年の子がアシスタントしてくれたり。
身近に先輩たちがそうして自分の余裕を他者のために使ってくれるのを「体験」しながら育っていくこともとっても大切なことですね。
自意識に囚われていて見えない、感じないこと
引き続き阪田さんの言葉。
だいぶ深い話で現代人には難しいかもしれないけれども響いた箇所
ネイティブ・アメリカンのヘアー族には、「教える・教わる」という言葉がありません。
教えてもらわないとできない、教えてあげないとできないというのは、自意識の問題です。
人間が複雑な社会を生きるようになる前は、自意識なんてありませんでした。
なんで私がいるのかとか、私を見てほしいとか、できるように教えてほしいとか、そういう発想がない。
ヘアー族の子どもは、大人がやっていることを見て学ぶんです。子供は何にでもなれるから、森に入れば森になりきる。
だから僕がしゃべろうとすることを子供どもたちが先にしゃべったりします。誰にも何も言われなくても、相手の内に自分を感じ、自分の内に相手を感じるやりとりが自然に起こる。
自意識に囚われていると「なんだやることないじゃんか」「教えてくれなきゃできないよ」となる。
「相手を思い、相手に思われる」という状態を体感できない、すなわち自意識に閉ざされた人々が信じているものってなんなのかってことを考えてほしい。それが相当怪しいものであることがわかると思う。
生身で感じることよりも画面に映し出される画像、音声、言葉が溢れかえる現代。
上記のような対象と一体になる感覚は、どんどん失われていってます。
ちょっと意味わかんないんだけど・・・という人も多いかも。
それこそが、自意識の囚われ人で、本当の自由を知らない現れなのかもしれません。
こどもと対峙する時、こどもの内面を感じることは先生として必須能力と言ってよいでしょう。
何度も書いていますが、まず子どもと信頼関係を築き上げる。
特に、困難を抱えている子は信頼してもらえなければ、何も始まりません。
それには、自意識が邪魔をするので捨てる。そして、この言葉が示すように「なりきる」。相手と一体化して、
「相手の内に自分を感じ、自分の内に相手を感じる」やりとりが必要なんだと思います。
「何も捨てることができない人には、何も変えることができないだろう」
某世界的大人気のアニメに出てくる言葉で刺さりまくります。
自意識、自我を捨てることで得られるものはものすごく大きい。
しかし人間はなかなか変われない。変わるということは、それまでの自分を捨てることだから。
「自意識に閉ざされた人々が信じているもの」
これは現代の大人のこと。
この社会の常識とか大きなこともそうですが、人間が頭で考えることって一見素晴らしそうに見えて長い目で見ると結構まちがっているということが多い。「論理」「理屈」の危うさ。
人類は、昔は宗教を盲信してきました。
その後、科学が宗教に取って変わり、現代人は科学を盲信しています。
ところが、科学の出す結論というのはあくまで現時点でわかっていることであり、それが覆されていくのが科学の歴史を見ると明らかです。
「論理的」という言葉にも現代人は弱いです。
ところが「論理的」という言葉が出てくる時ほど怪しいものです。
当たり前ですが、「論理」は現実ではないからです。
人間の不完全な頭が作り出すものが「論理」だからです。
「論理的に考える力」はもちろん非常に重要。でも、盲信してはいけない。
常に「間違っているかもしれない」と頭の隅に思いながら考えないと。
そもそも、「論理的」を盲信してる時点で論理的に考えていない、自己矛盾してますよね😅
投稿者プロフィール

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Bingo! Soroban School 責任者
そろばん教室でこどもたちと接するのが楽しくてたまりません。
自信を持って新しいことにどんどんチャレンジする子が一人でも多くなってほしいと願っています。
中学受験専門塾、中学高校受験塾の講師として15年あまりこどもたちに接したのち、紆余曲折を経て2013年ASOBO!、2016年そろばん教室を立ち上げる。2019年いしど式に加盟、全国珠算連盟認定教師。
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