近年、「非認知能力」という言葉が盛んに飛び交うようになりました。

ところが煽りすぎ、過熱して行き過ぎになってはいないか?
「非認知能力」獲得競争になってきてはいないか?
「体験格差」なんて言い出したのもそれに対する施策もおかしくないか?

と現在の風潮に一石を投じる本です。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614912

印象に残った箇所を何回かにわけて書いてみようと思います。

その前に私自身の思ったことをざっくりまとめますね。

特別な体験はしてみたいけど別になくてもいいし、そもそも自分で日常を特別な体験に変えることだってできるよね。
子どもの遊び、想像力って本来そういうパワーがあるはずだよね。

・貧乏人はお金持ちの体験をすることはできず、お金持ちは貧乏人の体験をする機会がない。
・勉強がよくできる子は勉強ができない子の体験はできないし、その逆も同じ。
・地方、田舎で育つ子は大都市で育つ経験ができないし、大都市で育つ子は地方で育つ経験ができない。

こんなこと当たり前。なのに、ないものねだり、他者との比較をベースにものごとを考えてもよい方向にいかないんじゃないの?
環境のせい、周りの人間のせい、自分の能力、遺伝のせいと言い訳ばかり、そういう人は楽しくなさそう、幸せじゃなさそう。

大事なのは、今自分がしていることの中から何を感じ、何を思うか。
その感性なり考え方なりが自分や周りを幸せにする方向に向かって育っていけば、きっといつだって楽しめる。

何気ない日常の風景に美しさや生命の不思議、驚き、喜びを感じる人もいれば、
何を見ても聞いても素通り、無感動の人もいる。

嫌な思いをしてずっと不機嫌を引きずってブツブツ文句を言い続けることもできるし、
スパッと忘れて自分のやりたいことを楽しめてしまう人もいる。

自分で自分を幸せにする、自分の機嫌は自分で取れる、そういう人になりたいなあ。
それって、戦時下とか極貧とか生死に関わる極限状況でない限り、そんな難しいことではないと思う。

何か特別な体験をするよりも、日常些細なことすべてにおいて、本人がどう感じ、どう考え、どう行動するかが大事なんじゃないかな?
「今、ここ」に没頭して楽しむことが何より素晴らしいことなんじゃないかなと思います。
それは、ときにはボーっと空想にふけることかもしれないし、バカみたいにアリを見続けることかもしれない。
そうした体験の機会を奪って、忙しく大人が提供する「体験」コンテンツの数々に浸らせているとしたら本末転倒なのでは?

 

投稿者プロフィール

のぶ先生
のぶ先生
Bingo! Soroban School 責任者
そろばん教室でこどもたちと接するのが楽しくてたまりません。
自信を持って新しいことにどんどんチャレンジする子が一人でも多くなってほしいと願っています。
中学受験専門塾、中学高校受験塾の講師として15年あまりこどもたちに接したのち、紆余曲折を経て2013年ASOBO!、2016年そろばん教室を立ち上げる。2019年いしど式に加盟、全国珠算連盟認定教師。